亮太ブログ

ニュアンスとベクトル


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吉田兼好の『徒然草』、第四十一段。

「賀茂の競馬」。


五月五日、京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。

大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、
ある坊さんは木によじ登って見ることにした。

その坊さんは、木にへばり付いて見ているのだが、
次第に眠気がおそってきて、こっくりこっくり始める。

そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、
またへばり付くというようなことを繰り返していた。

それをそばで見ていた人たちは、あきれて、

「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」

と口々に言った。

そこで兼好は一言。

「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。
それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。

―――人の死は誰とて、今この一瞬にやってくるかもしれない
(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。それを忘れて、物見に興じている町衆の愚かさは坊主以上である。



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そんな話がある。




「不老不死の薬」が、来年、2009年、開発されたらどうだろう。

それは100円で、しかもコンビニで手に入る。


多くの人が買うだろうか。どうだろう。


買わない人もいるだろうね。


なぜか。


長生きが素晴らしいことをみんな知っている。

明日も生きたいと願ってる。
それだけで精一杯の人もいる。

一日でも多く生きれば、一人でも多くの人と出逢える。発見がある。感動がある。幸せがある。その可能性がある。






死を逆算してライフプランをたてるというのがあるが、(ビジネスやらスピリチュアル本でよくあるが)

僕はそれは苦手だ。





哲学者のハイデガーって人がいる。


ハイデガーは、

人間は
「自分が選んだり、造ったりしたわけでもない世界」に否応なく投げ込まれてしまっている存在であると言った。


このすべての人間に共通した状態を「被投性」とハイデガーは名づけた。


その被投性は、気分(とりわけ、不安)を通して自覚される。


たとえば、日常生活の中で

「どうして俺はここにこうして生きているのか?」

といった問いは、誰にもあると思う。

だって、理由がないんだから。

なんでここ(世界)にいるのかなんて、理由なんてない。

だからそういう不安をもつことは自然なこと。自然なことなんだよ。



ここからハイデガーはさらに言うわけだ。


この被投性(世界に投げ込まれていること)を自覚すると、
ヒトは自分が死によって、いつかこの世界から強制的に退場させられるという事に気がつく。


自分の死を意識することを
ハイデガーは死への「先駆的覚悟性」と呼んだ。(そんな言葉はどうでもいいが。)

この死の自覚をもつと、
自分の生の意味をもう一度捉えなおそうという、ある意味前向きな試みが始まる。


この試みは「投企」と呼ばれる。(そんな言葉はどうでもいいが)



整理すると、

世界の中に否応なしに投げ込まれている人間は、

その不安や死の自覚を通してそれを自覚し、
そこから新たに自分を捉えなおし、
新たな生き方を始める。

存在と自由の真の意味がそこにある。



※誤解釈あればすいません。



こんなことを僕は学生時代に勉強していたわけだ。哲学専攻で。
(ちなみに卒論は『ハイデガーとサルトル』)





これって、人生(死)を逆算してライフプランをたてるやつにちょっとだけ似てるよな。ビジネス書によくのってる。

でもちょっと違うんちゃうかって思ってる。

ああいうのって、「生きてる」んじゃなくて、「死ぬから生きてる」みたいじゃない?

なんだよそれ。
それで自己実現って、なんか違うんじゃないか。



生と死は同一なんだと、僕は思ってる。

そこに線引きできねぇんだって。徒然草の一節みたいに。


人間いつ死んじゃうかわからない。確率は環境によって違うけれど。

だから生きてるときと死ぬときの間、その期間って無いんだ。

もともと存在しない、ありもしない期間なんだって、それは。

その期間にライフプランをつめこむって、無理ある気がする。


よくわからない、逆算的ライフプラン、およびそのカレンダーやビジネス手帳論、

僕はやっぱりイヤだな。苦手。

そんなビジネス書が横行してるってのがちょっと信じられない。(しかも売れてる)

それは死を意識して、焦って必死になってるだけで、
ハイデガーのいう本当の「生」への前向き意識ではない気がする。そこへ昇華できていないパターンが多い気がする。


しなければならないのと、したいことって微妙に違う。

自発的かどうかのところで、違う。



不老不死の薬ができたら買うか。買わないか。

非常に難しい問題で、名だたる哲学者もまだ解答をだせていたいのが現状。




一日でも多く生きれば、一人でも多くの人と出逢える。発見がある。感動がある。幸せがある。その可能性がある。

大事なのはそこなんだよな。その可能性なんだよ。

僕はそこに自分の存在が向かう道しるべをたてている。

そこに絶大の価値を見出している。

死ぬ可能性じゃなくて、明日も生きる可能性に存在のベクトルを向けるほうが、
俺はずっと楽しい人生だと思うんだよ。(ニュアンス的に)

何をするために生まれてきたというより、何をしたいかで生まれてきたこと。


そんなニュアンスやベクトルのほうがいいと僕は思うんやけどなぁ。逆算的より。



てか、なんで俺はこんなこと考えてんだろう。
答えの無いことを考えたって仕方ないのに。汗


以上